Hommage クレオール主義

松田法子「Hommage/今福龍太『クレオール主義』」, 『去来の弦にふれる 今福龍太全著作目録 1982-2020』, Gato Azul,2020

クレオール化とは運動や関係性の創出のことだ。それを目指すのがクレオール主義。「クレオール主義」を最も短く言い表すとしたら、そういうことになるのだろうか。
固着や伝来を退ける。刻々とダイナミックに変化する、複合的で接合的な世界をまなざす。そこにある〈存在〉の、反対の〈現存〉をみつめる。それは、同化や浅はかな普遍化への、徹底した抵抗。クレオール(主義)は、いうまでもなく今福龍太の重要な水源だ。
本書はサイードを出発点とするポスト・コロニアル研究としてまず読まれ始めたと聞く。しかし今福の思索の歩行がそこにおさまるわけがない。今福は遠く近く迂回しながら、少しずつカリブの熱帯の島々へ接近してゆく。
最初の言葉はこうだ。「失われた景観がそこにある」。読者はそれから西ヴァージニアの古い炭鉱町に降り立ち、雪積もるワイエスのペンシルヴァニアの小村へと連れ去られる。サウスウェスト、ニューギニア、アメリカとメキシコのボーダーランズ(境界領域)、ロシアとブラジル…。さまざまな土地を経めぐりながら、場所、歴史、物語、文化、領域、ネイティヴ、プリミティヴ、ヴァナキュラー、位置の問題、住むこと、移動すること、書くこと-描くこと、写すこと-枠取ること、話すこと、血、そして「混血」についての思考が、ひらかれていく。
それは、有機的な組織で組み上げられた壮大なパサージュへ迷い込むような読書体験だ。世界の風穴としての、脈動するパサージュ。今福はその世界の伽藍のなかで、土地をめぐるトロープ(喩)、トピックス、トポロジー、トポスの問題を、精緻に腑分けてゆく。
かれはいう。調査ではなく、つねに旅があった。つねに、土地への調律があった、と。
『現代思想』1年分の連載を原型とする本書はまた、「変容する書物」を体言する書籍ともなった。2冊め、3冊めの『クレオール主義』は、それぞれにアクチュアルな増補を得て姿を変えてきた。図版は3分の1ほども入れ変わっているという。『クレオール主義』はきっと、終わりのない生きた書物なのだろう。
ここでわたしは唐突に夢想する。もし「世界の果て通り」という海辺のストリートがあったなら、今福は確実にその住人だ。次の『クレオール主義』は、たったいまもそこで準備されているのではないか。そしてその地には、いつしかたくさんの越境する表現者たちも集っていた。今福がその汀にかけわたす、クレオールの虹弧を目印にして。〔松田法子〕